【復刻】パーキンソン病からの復活を目指すマサ斎藤(日刊スポーツ)

<復刻版・2017年1月18日付の東京オリンピック(五輪)特集>

 プロレス界のレジェンドで1964年東京五輪レスリングヘビー級代表としても活躍したマサ斎藤さんが14日に死去した。75歳だった。

【写真】アントニオ猪木マサ斎藤 マサ斎藤アントニオ猪木を締め上げる(1987年10月4日)

 引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。懸命のリハビリと闘病生活を長く続けていた。日刊スポーツでは2017年1月18日付けの東京五輪特集で、病と闘いながらも前向きな姿勢を失わない斎藤さんの姿を取り上げていました。

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 日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表のマサ斎藤(74)が、2020年東京五輪を励みに懸命の闘病を続けている。引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。リハビリを休めば体の自由はさらに奪われる。だが、「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」の信条は失っていない。戦い続けてきた男の激動の半生、根底にある五輪への思いに迫った。【取材・構成=奥山将志】

 

 栃木県内のリハビリ病院にいる斎藤を訪ねたのは、昨年大みそかの午後1時だった。現役時代、はち切れんばかりに鍛え上げられていた体は小さくなり、体重は120キロから70キロまで落ちた。74歳。白髪交じりの頭に、背中も少し丸まっていた。だが、あいさつした記者を車いすから見上げた目は、戦いの中にいる男のそれだった。

 病は急に襲ってきた。99年、56歳でリングに別れを告げたころ、少しずつ体に異変が起きていた。ろれつが回りにくくなり、顎が細かく左右に震え始めた。1年以上も国内外の病院を転々とした結果、パーキンソン病だと分かった。原因は現役時代に蓄積された脳へのダメージ。暴飲暴食、リングに上がり続けるために飲んでいた強い鎮痛剤も関連していると言われた。ゴールのない、壮絶な戦いが始まった。

 16年がたった現在、進行は「末期」に入っている。1日に数回襲ってくる発作が始まれば、全身の震えが治まるまでじっと待つしかない。1回1時間のリハビリを1日に3回。365日、少しでも怠れば体の自由はさらに奪われる。何度も絶望し、何度も自分の運命を恨んだ。だが、逃げることは許されない。

 午後2時-。歩行、スクワットのリハビリを歯を食いしばって乗り越えた斎藤に、胸の内を聞いた。震える顎を自らの手で固定するように押さえ、息を整える。ゆっくりと、一言一言を紡ぐように言った。「パーキンソンは恐ろしい病気だ。だが、俺はこうして戦っている。絶対に負けるもんかと。こいつをやっつけないと、俺は生きていけないんだ」。 

 

  戦い続けてきた。明大4年時の1964年に東京五輪に出場。コーチからは4年後のメキシコ五輪を目指すことも打診されたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団した。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に活躍の場を求めた。後ろ盾など一切ない。わずかな荷物を手に、1人で海を渡った。

 日系人が日本人を演じ、ヒールとして活躍していた時代。確かな技術と、「元オリンピアン」という肩書は米国でうけた。「俺は東京五輪レスリング日本代表だ。一番強いんだ」。現地のプロモーターに自らを売り込んだ。スター選手だったキンジ渋谷のタッグパートナーに抜てきされると、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に大ブレーク。

 その後もNWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米にその名をとどろかせた。日本でも猪木との「巌流島の戦い」など数々の伝説を残し、99年に引退。だが、斎藤の屈強な体に病が迫っていた。

 解説を務めていたテレビ局関係者からの一言が最初だった。「もう少し、はっきりと話してもらえませんか」。斎藤自身も身に覚えがあった。倫子(みちこ)夫人を呼び「なあミチ、僕の顎、少し震えていない?」と聞いた。医師から診断が告げられると、華やかな現役生活から一転、谷底へ突き落とされたような気分だった。「何で俺だけが、こんな目に遭わないといけないんだ」-。自らの運命を恨んだ。

 顎が震え始めると、拳でゴツンゴツンと何度も殴りつけた。ぶつける場所のない怒り。そんな日々が何年も続いた。13年11月には恐れていた「転倒」も始まった。つえ、車いすがないと生活ができなくなり、その後は、薬の副作用による幻覚にも苦しんだ。倫子夫人は「人生を諦めたように表情がなくなっていった。気持ちが前を向かないから、リハビリも続かない。五輪にまで出たファイティングスピリットが燃え尽きてしまったのかなと思うと、本当につらかった」。夫婦仲も壊れかけていた。

 だが、そんな暗やみに一筋の光が差した。13年9月、20年の東京五輪開催が決まった。斎藤にとって2度目となる日本での夏季五輪。胸に熱いものがこみ上げた。「僕は、2020年に絶対にカムバックするよ」。倫子夫人に言った。久しぶりの力強い言葉だった。

 

 昨年12月、斎藤は17年ぶりにリングに立った。旧知のプロレス関係者の計らいで大阪で斎藤を応援する小さな興行が開かれた。ファンに姿が見えない、リングぎりぎりまで車いすで近づいた。だが、そこからは「レスラー・マサ斎藤」だった。入場曲が鳴り響くと、すっと立ち上がり、自らの足でロープをくぐる。用意されたいすに座ることなくファンの声援に手を挙げて応えた。乱入した武藤敬司の猛攻を受け切ると、チョップから踏みつけ攻撃4連発。斎藤の状況を知るすべての関係者が驚いた。

 試合の前夜、斎藤は言った。「俺も普通の人みたいに、町を歩きたいんだ。絶対に歩いてみせる」。心の叫びだった。倫子夫人は涙が止まらなかった。東京五輪、プロレスのリング。斎藤の戦いのスイッチが入った。これまで以上にリハビリに熱が入り、担当する大柄な理学療法士を相手にした“スパーリング”も始めた。体1つで世界の頂点に駆け上がった男が、再び前を向いた。

 五輪-。昔話を聞いていると、突然昨今のスポーツ界にかみついた。矛先は試合後の選手がよく口にする「エンジョイできました」というフレーズだ。「エンジョイの意味を分かっているのか。試合でエンジョイ? 勝負だよ。エンジョイは結果を出したやつが使う言葉だ」。勝つことで未来を切り開いてきた男の自負がにじみ出た。

 約1時間の取材を終えた。感謝の意を伝え、記者がいすから立ち上がろうとした時だった。斎藤から質問が飛んだ。「今、何年だ?」。「明日から、2017年です」。それを聞くと、視線を下げ、ゆっくりと指を折って数え始めた。「18、19、20…」「もつな」。わずかにほおが緩んだ。